PL7デイズ。

西ドイツの精霊さん系(または小悪魔系)ドリブラー、ピエール・リトバルスキーについて無秩序に書き散らかす「備忘録」。

Imagoプレビューシリーズ:こっち見た...!!

画像プレビューシリーズ。
たまたまカメラ目線になっちゃったやつ、傑作2選。
(出典:Imago-images。どちらもクリックで拡大)

WM1982直前合宿 in シュヴァルツヴァルト

プロになったときから「ぼくには少年ファンに対する責任があります。」と言っていただけあって、少年少女に囲まれがちなリティさん。メディアのカメラの存在に気付いた模様...。
サッカーマガジン」1981年12月号で「がっしりとしたブンデスリーガの選手たちの中にあって、168センチ64キロの彼は子供のようにさえ見える。しかしいったんボールをもつと、子供扱いされるのは、相手のディフェンダーなのだ。」なんて書かれていたけれど、確かにサイン待ちのチビっ子たちの中に埋もれちゃってるような...。


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リーガ・デビュー間もない頃。(1978年9月9日)
この写真を初めてみたとき、「睨めっこ」を試みた作者は秒で敗北しました。
溢れる初々しさも然ることながら、40年経っても基本的に顔(特に目つき)が変わっていない事実に対する驚きが大きかった。
愛車の原付で出勤する当時の彼に、ケルンの繁華街の人々が「あ、ちびちゃんだよ! かわいい!」と言いながら手を振ってくれたという逸話があったけど、この頃の彼は15~16歳の少年に見えたらしい。(てか、やっぱり「かわいい」って言われちゃうのか...w)

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...別のネタを投稿したかったのですが、EM1988のデンマーク戦のDVDを見ていたら何となく疲れてしまったので、今日はこの辺りで。(デンマーク戦、キックオフ直後の西ドイツ背番号7の強烈なスライディングタックルは何度見ても面白い。他にもドンピシャのCKとか、センタリングと見せかけて横パスとか、いろいろオシャレなプレーが見られて楽しかったです。当時の西ドイツの選手たちの前線からの鬼プレスとか、ダイナミックなパスサッカーとか、今見ると結構先進的。そんなことを改めて思いました。)

U21の小さな悪魔:42年前の記録。

一生見られないと思うけど、観戦できた日には歓喜のあまりそのまま昇天してしまうだろうと思われる試合がある。
1982年10月13日U21欧州選手権決勝2ndレグブレーメンで行われた西ドイツvsイングランドがそれ。

その前月22日にイングランドのホームで行われた1stレグ、アウェーの西ドイツの、いつもの「主将」は不在だった。彼の姿は同じ日に行われたA代表の対ベルギー戦のピッチ上にあったからだ。1stレグの結果は3-1。西ドイツのホームで行われる2ndレグは、3点差以上で勝たなければ優勝はないという、過酷な状況で迎えることとなった。

そんな重圧の中、件の主将が戻ってきた。

試合は0-0のまま後半へ。何としてでも失点は避けたかった西ドイツだが、あろうことか51分に先制を許してしまう。3分後、帰ってきた主将が1点を返し、試合は振り出しへ。だが79分、再びイングランドがリードを奪い均衡が崩れる。このままでは優勝できないどころかホームで敗れるという屈辱が待っている---。遂に漂い始めたセンチメンタルなムードを、主将は躊躇いもなくぶち壊しにかかる。2分後の81分に2点目、更にその2分後の83分に3点目を決めて逆転。試合はそのまま終了し、3-2で西ドイツが勝利。合計点が5-4となったため優勝こそ逃したが、ホームチームの面目は保つことができた。
なお、ハットトリックの活躍を見せた主将は大会の得点王(6得点)をちゃっかりと搔っ攫っていき、なんと今でもドイツのU21最多得点記録(18得点)は彼が保持している。



www.uefa.com

 

UEFA公式のスタッツ頁。わざわざ注目せずとも、この一行に目が釘付けになるのは何故だろう…。

”Littbarski 54', 81', 83' "

抑も誰かしら、このLittbarskiって子。
この年の夏のWMスペイン大会でアイドルになったあの子と同じお名前だけど、偶然かしらね。(お嬢さま風味の口調で)
勿論、このLittbarskiはラストネームが偶然一致している別人とかではなく、WM'82の準優勝チームにいたPierre Michael以外の何者でもない。しかし、他に別人がいるんじゃないかと言いたくなるほど、この年のリティさんの活躍っぷりには漫画以上のものがあったと思っている。自分が漫画の編集者だったら「先生、こんな体格にハンデのある可愛い感じ(違)の主人公が、こんな八面六臂の悪魔みたいな活躍をする夢物語なんてリアリティがなさすぎるから却下ですよ。もっと現実的なお話を組み立ててくださいよ」って言うレベル。1979年からU21の主将を務めながら1981年10月以降はフル代表との掛け持ちである。その事実だけでも当時の彼の凄さは十分すぎるほど伝わってくる。世界一が決まる夏の舞台で、世界中のテレビの前のファンを楽しませることができた実力者は、下のカテゴリーにおいてはまさに無双状態だったのかもしれない。流石はラストネームの中に、どこかで聞いたような滅びの呪文が紛れている人だけはある。

いずれにせよ、このスタッツを最初に見たときは、とりあえず笑った。純然たるストライカーでもないのにひとりで3点取ってる人がいるのも可笑しかったが、それよりもメンバーの名前の横の括弧書き。
後にA代表でも活躍するアイケ・インメル氏がGKなのは間違いないとして...これ、誰も気づかなかったんかい!!

誤)7 Littbarski (GK)
正)7 Littbarski
(C)

体格とかの話以前に、悪魔のリティさんがGKって相当ヤバい香りがする。


ドイツから再び大会得点王が生まれたのは、実に37年後の2019年。(UEFA U-21欧州選手権2019 - Wikipedia)コーラの瓶(ペットボトルではない)を片手に「遅いよ! 退屈だったんだから!!」とルカ・ヴァルトシュミット(7得点)に向かって言い放つ、ブロンドのロングヘアーがトレードマークの小さな王様の姿を思い浮かべてしまったじゃないか...。

以上、活字でしか見たことのない(読んだことのない)幻の試合の話でした。

【ご参考】

 ja.wikipedia.org

追悼:『天使のチーム』の新監督。

2024年8月24日、クリストフ・ダウム監督が逝去されました。ヘビースモーカーだったこともあり、2022年から肺癌で闘病していたとのこと。
訃報を知って何となく更新がストップしてしまいましたが、今回は愛弟子ピエール・リトバルスキーによるダウム監督の思い出話を載せることにします。

リティさんは以前或るインタビューの中で(「Kicker」だったと思う。後でリンク先を探します...)「あなたが選手として形成されるにあたって最も影響を与えた監督は誰ですか?」という質問に対し、こんな回答を。

「クラブでは2人いる。ヘネス・ヴァイスヴァイラーはプロになって最初のシーズンから、ぼくを使ってくれた。前の年に二冠達成のチームでだよ? こんなに信頼してくれるなんて、と思った。それから、クリストフ・ダウム。クレイジーで、ポジティブで、良い選手に更に良いものをプラスできる人だった。後は代表に僕を連れていってくれたベルティ・フォクツ(ベルティはU21に呼んだときから彼をキャプテンに据えてくれた監督だが、B代表(出場1試合)やA代表に呼ばれたときは快く送り出してくれた。)

そしてパリの冒険旅行(1987シーズンのラシン・パリへの移籍)から戻ってきたときのことについては、こんなふうに回想している。
競技面では上手くいかなかったよね。コーチも監督も、ドイツ語を喋る人はみんなクビになってさ、巨大なパリの街でひとりぼっちさ。まるで道化師だったけど、ここでリーダーになるための第一歩を踏み出したとも言える。それで、ぼくはケルンに戻った。
クリストフ・ダウムはキラキラした目をしてぼくに言った。リティ、我々は心から君に戻ってきてもらいたい。(トーマス・)へスラーには右でプレーしてもらう。君が『10番』(ゲームメーカー)だ。しかしながら、ここにひとつ問題がある。我々には金がない。...クレイジーだけど、本当にケルンに帰りたかったぼくは50万マルクを借金までして自腹で融通したのさ。ダウム政権下でプレーした3年間はケルンでぼくが過ごした日々の中で、最も美しい時間だったと思う

因みに、自分がゲームメーカーを任されると思ったトーマス・”イッケ”・へスラーさんは、最初は随分ガッカリしていたらしい。でも帰ってきた同郷(ベルリン生まれ)の兄さんに「オレらで力を合わせてチームを勝たしてやろうじゃねえか」と言われたこともあり、それから仲良くなるのに時間はかからなかったらしい。後に五輪代表を経てA代表入りしたイッケちゃん、24歳で迎えた1990年のWM決勝では右の中盤に入り、左のリティさん(30歳)と一緒に安定した中盤を形成してくれた。その後1990年代のドイツ代表停滞期を支えてくれたことは忘れない。なお、今でもリティさんはイッケちゃんに会うと「お兄ちゃん」の顔をしている...w
※イッケちゃんのベルリン訛りのキツさは有名。そもそも「イッケicke」というニックネームは彼が使っていたベルリン語の一人称(「オイラ」みたいな感じw)が由来。文法が崩れていて口が悪いベルリン方言、同市出身者でもギムナジウムから大学に進む比較的高学歴の人の半数以上が喋れないと聞いたことがある。作者はギムナジウム出身のリティさんのセリフを訳すとき、ベルリン風味のときだけは口調を荒めにしています。

...話は脱線したけど、もし1987年に、一流のモチベーターであり「立て直し請負人」であったダウム氏がエフツェー・ケルンのトップチームの監督に就任していなかったら、リティさんは戻ってきたんだろうか...と考えてみたりする。そして、そんなダウム監督が、その魔法の腕でドイツ代表を立て直すのを見たかったな、と今でも思う。(そう、あの「コカイン騒動」がなかったらドイツのフットボール界との縁は切れなかったはず...泣)
5月からコンスタントに更新されているリティさんのInstagram、気になって見に行ったけれど、やはり永遠の愛弟子の追悼メッセージは胸に迫るものがありました。

RIP. ダウム監督。

ホームシック先の国でのリスペクト。

www.dfb.de
「日本へのホームシック」と来た(笑)
当ブログでは、↓こちらで↓一部内容を紹介しましたが、流石DFB、良い記事です。

pl7dayz.hatenablog.com

PL7が56歳、ヴォルフスブルクでチーフスカウトを務めていた時代のインタビューで、テーマは「Heimat(ホーム、故郷)」。昨日の話題、末っ子のルシアンさんが父上の故郷であるベルリンのクラブに移籍したニュースで、この記事の存在を思い出しました。

初めて来日したときのこと、日本で過ごす時間、日本での失敗、ベルリンの思い出、ケルンのこと…盛り沢山過ぎて一気に読んだら翻訳できなすぎて寝込みそう。
Heimatと聞いて最初に思いつくのは?と尋ねると、彼の答えは「日本。て言うと、奇妙に聞こえるかもしれないけれど」。そして、インタビューの最後では「Heimat」についてこんな「定義付け」をしている。「日本では短パンにサンダルでスーパーに行って、ベランダで洗濯物を干す。でも誰も気に留めないのさ。これがHeimatなんだ」

この記事について語ろうと思うと一日中話せそうですが、今回はこの部分に注目。

"Okudera hat mal zu mir gesagt, dass mir die Menschen dort auf Augenhöhe begegnen werden", erzählt Littbarski. Das klingt wie ein maximal mittelguter Scherz über einen 1,68 Meter großen Fußballer. "Aber das hatte er gar nicht so gemeint, nicht abwertend. Er wusste einfach, dass mir die Leute dort mit einer besonderen Art von Respekt begegnen werden." Respekt, der in Littbarskis Augen besser zu ihm passte als sein Image in Deutschland. "Ich hatte immer das Pech, dass ich durch meine individuelle Spielweise und mein positives Denken als Clown abgestempelt wurde. Daran hatte ich lange Zeit zu knabbern."

「奥寺さんは以前、日本の人々は同じ目線でぼくに接してくれると言ったんだ」それは身長1.68メートルのフットボーラーに関する、最大限に平凡なジョークのように聞こえるかもしれない。「でも、そういうことじゃなかったんだよ。軽蔑的な意味合いではなくてね。彼は人々が特別な敬意をもって、ぼくを扱ってくれると知っていたんだ」リスペクト。リトバルスキーの目には、それがドイツにおいて彼に付き纏っていたイメージよりも良いものに映った。「ぼくは自分のプレースタイルやポジティブシンキングのせいで道化師のレッテルを貼られてしまう不運に見舞われてきたし、それでずっと苦い思いをしてきたんだから」(ざっくり翻訳)

一部を読んでみただけなのに、なんかもう胸がいっぱいになってしまった。
PL7が小さくて華奢で明るくて優しくていつも笑っててトリックプレーが得意なエンターテイメント性に溢れるフットボールをするような人だからって、それを理由に彼を軽んじる(目線を合わせず高いところから見下ろす)なんて発想は、少なくとも日本人である作者には無い。寧ろ、こうした個性ってビッグ・リスペクトに値するものなんじゃないのかな。日本にもアイドルだったPL7を回想して「かわいかった」と言って憚らない人は沢山いるだろうけど(8/11更新「作文『かわゆい』考」)、そこに侮蔑的な意味などないし、彼らが上から見下そうとしてきているわけでもない。そのエンタメ性の高いフットボールが確かな技量と試合を読む目の上に成り立っていることも、ちゃんと知っている。
日本での彼は「ピッチ上では、リーガではやらなかったことをやった。チームメイトが良くなるように、手を貸すことができたんだ。彼らはぼくの言っていることが理解できなかったけれど、ぼくが見せたものすべてを吸収してくれた」。そして「日本では、ケルンではなれなかった別の何かになることができたんだ。そのことが、ぼくとこの国との絆を形成しているのさ」。

生まれ育った街ベルリン以上に日本を「Heimat 」だと思ってくれているのが妙に嬉しい。日本のことを全く知らずに来たのに、日本人は彼について多くのことを知っており、しかも彼をリスペクトしていた。PL7、日本人はずっと「片思い」だったんだよ。それに気付かなかっただなんてPL7、あなた随分酷い男だよ。(言い過ぎたw)

ということで、ルシアンさん。
新天地ヴィクトリア・ベルリンでの活躍を祈っています。

速報気味:ルシアンさん、新天地。

viktoria.berlin
ルシアン・リトバルスキーさん(21)、新シーズンは「FCヴィクトリア1889ベルリン」でプレーすることが決まった模様。
スポーティングディレクターのコメントは次の通り。
「我々は一貫して自分たちの道を歩み続けており、ルシアン、ヤコプ、モーリッツという3人の若くて才能のある野心的な選手を呼ぶことができて嬉しい。能力的にも性格的な部分でもチームにフィットして、我々に多くの喜びを与えてくれるものと信じている」(ほぼ意訳)

ちょっと日本に来てほしかったけど(笑)、とりあえずは一安心。

画像プレビューシリーズ:1982年、殺し屋さんと一緒。

ブラジルもアルゼンチンも、キープレーヤーがこの人の徹底マークに遭って力を削がれまくった。ニックネームは「殺し屋」、本名クラウディオ・ジェンティーレ。「優しい」って名前なのが面白い皮肉としか思えない。WM1982決勝戦では、西ドイツのチビッ子ウインガーがボコられてたし...。(ジェンティーレにマークされるって、或る意味名誉でもある気がする...なんて言ったら怒られるかな)
◆出典:Getty Images , Imago Images

実はパンツ掴まれてる。

https://media.gettyimages.com/id/1230045254/ja/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88/claudio-gentile-of-italy-and-pierre-littbarski-of-germany-during-the-1982-fifa-world-cup.jpg?s=2048x2048&w=gi&k=20&c=SlQ73TpRn4dQluBQ_KEAQcui_tYkTKjXMFNX5gJlVfc=


イラッ...。(この表情!!)

https://media.gettyimages.com/id/1230045035/ja/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88/claudio-gentile-of-italy-and-pierre-littbarski-of-germany-during-the-1982-fifa-world-cup.jpg?s=2048x2048&w=gi&k=20&c=usXi45u6DZ120OFfMu0xMYm6HqK1ZiVtyF5dAlKu890=

黄紙も貰っちゃう。

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がっくり。

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なんか可哀想になってきた...。
でも、このストレートな感情表現が良い◎

'82年のイタリアは間違いなく優勝に値するチームだったとは思うけど、準決勝で深夜まで試合をする必要もなければ、長距離の移動もなく、中2日で決勝に臨む必要もなかった。加えて西ドイツは準決勝で手の内を全部見せてしまったところもあるから、そういう意味では初めから勝負がついていたような気がしなくもないのだが...。

そして、チームがどんな状況に置かれようと厭くことを知らない子供のような熱心さでピッチを駆け抜けた22歳は、2つのゴールと大会最多の5アシスト(と1枚のイエローカード=画像3枚目参照)を記録して、まるで魔法を解くように至高の舞台を去っていきました。
作者は今でも、この儚ささえ漂う繊細な技術とやんちゃな冒険心とを(更に言及するならばPK戦という極限状態で見せてくれた強さと優しさの鮮烈な印象も)違和感なく同居させる、エンターテインメントの世界から抜け出てきたような選手をリアルタイムで見られなかったことが残念で残念でならない。同時に、この選手の11年後の姿を日本にいながら目の当たりにする一種の「異常事態」を経験できたことを、夢のようにさえ思う。この人の明るく親しみやすい性格が日本人の世界との心理的距離を縮め、そのプレースタイルが「日本人のフィジカルでは世界で戦えない」という俗説へのポジティブな反証としての役割を担ったこと、そして、それらが将来にわたって日本のフットボール界に与える影響は決して小さくはなかったのだろうな。

あれから30余年。あの頃想像すらできなかった未来を、今自分たちは生きているのかもしれません。

美文:「ドイツ・フットボールの輝けるアノマリー」②

前回にひきつづき、こちらの英文記事の話題です。

筆者のニックさんは本当に「西ドイツの、精霊のような7番」のファンなのだな、と実感できるような表現が随所に出てきて、同じファンなら首が疲れるほど頷きながら読める記事です。もうね、リトバルスキーが好きな人全員に読んでもらいたいよ。(英文だけど...)

例えば、1985年のブンデスリーガ年間最優秀ゴール(対ヴェルダー・ブレーメン戦)の描写。

With defender and goalkeeper now wrestling him for possession, he finds the presence of mind to scoop the ball through a gap not even light could pierce and into the net. It’s a goal so brimming with skill, daring and indefatigable bloody-mindedness, that even the beaten Burdenski appears mildly impressed.

(ほぼ意訳)DFとGKがボールを取ろうと格闘しているとき、彼は光さえ貫通できないような隙間から左足でボールを掬ってゴールネットに蹴り入れる冷静沈着さを見出していた。それは余りにも熟達した技巧と、不敵かつ不撓の暴力性とに溢れたゴールだった。打ち負かされたブルデンスキーですら穏やかに感銘を受けているようだった。

巧いだけではない、驚異的な粘り強さで勝ち取った得点。ドリブル突破(これが既に彼らしい)からのシュートが一度は阻止されるも、再び突破を試みGKと交錯、その倒された姿勢からシュートを蹴り込む冷静さと熱量とに圧倒される。そのシーンを素敵に表現するとこうなるのだろうよ。
あとは他にも、

It was a moment marked by his customary celebration – body tilted back while punching the air with both hands, an infectious smile stretched across his face, bereft of any hint of cynicism or arrogance. Unlike so many footballers – even some of the greats – he was a man who appeared to be genuinely thrilled to be playing the game, every goal a source of pure delight.

(ほぼ意訳)それは彼の恒例のセレブレーションの瞬間だった。身体の重心が後方に傾き、両手の拳が空中に勢いよく何度も突き上げられ、見る人まで笑顔にしてしまう伝染性の笑みが満面に広がる。そこにはシニシズムや傲慢さを示唆するものは微塵も無かった。多くのフットボーラー---その一部は偉人ですらあるが---とは違って、彼は試合に出てプレーすることに対して真に全身がぞくぞくするような喜びを見出しているようであり、すべてのゴールが純粋な歓喜の源泉なのであった。

このあたり、ファンならニヤニヤしてしまう箇所だと思う。そして、この壮大な記事の最後のサマリー的な部分なんかもう、上手く日本語にできない自分が本当に嫌になったけど、まあ、そこは言語が苦手…ってことで諦める。

A diminutive figure who through a combination of impish brilliance and fearlessness, lit up even the cagiest encounters with his determination to terrorise the game’s more rugged defenders. The epitome of grace over power and joy over cynicism.

(ほぼ意訳)悪戯な煌めきと大胆さで、頑強なDFたちを恐怖の底に陥れようとする狡猾な意図を秘めた遭遇さえも光り輝かせる小さな巨匠。力を超越した天の恩寵たる才能の、そしてシニシズムを超越した喜びの縮図。

impish brillianceなんて、ピエール・リトバルスキーという悪魔的ドリブラーのためにある言葉としか...。だいたい、こんな格調高い賛辞、ガチのファンじゃないと思いつかないなぁと思うわけですよ。

この壮大な讃歌は、ニックさんの1982年の記憶と、1974年、当時14歳のリティさんの時空を超えたセンチメンタリズムが重なり合うところで終わりを迎える。
「1974年のW杯でボールボーイを務めた頃について尋ねられたとき、彼は母国の究極的な勝利ではなくトーナメントの最も魅力的なチームについて思いを巡らせた。『ぼくはオランダを見ていたかったんだ。大会を通してずっと息を呑むようなフットボールをしていたから』。私自身の最初のW杯の記憶、そして西ドイツの、まるで精霊のような7番に思いを馳せるとき、同じ感傷がオーバーラップしてくるのである。」

このまま小一時間ほど感傷に浸っていたい衝動に駆られるけど、お盆だからって休めないんだよなw とりあえず例の「年間最優秀ゴール in 1985」の動画を貼っておきます。

 
動画は、髪型がイキナリ軍人さんみたいになった頃の映像でスタート。simply incredibleというナレーションがすべて。上手いだけでなく、果敢で冷静で何より粘り強い。
(襟足伸ばしたりハイライト入れたり髪型に気を遣ってた人が、ほぼ丸刈りになって現れたときの周囲の反応ってどんな感じだったのだろう...。自分なら腰抜かすと思う。で、誰にやられたの?って訊く)

【おまけ:ヴァイスヴァイラー監督のこと。】

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出典:Imago-images

向かって右側の貫禄のある人が、1.FCケルンの一時代を築いた伝説の監督、へネス・ヴァイスヴァイラー氏。この英文の記事の中でも、彼の炯眼が、垂直にピッチを往復するプレーが愛弟子のクリエイティブな可能性を制限すると見抜き、彼がウイングから自由に離脱してフィールドすべての領域から攻撃に関わっていくよう背中を押した、という話が出てくる。

「お前がボールを持つんだ、ピエール。ボールにダンスをさせてごらん。何か美しいことをしよう」
まだ18歳だった愛弟子を励ますヴァイスヴァイラー監督の言葉。「君は絶対にドイツ人じゃない、ブラジル人だ。フットボールのやり方で一目瞭然だ」という、フェリペ・スコラーリ監督の「ストリート仕込み」のスタイルを見抜いた台詞同様に、彼のフットボーラーとしての本質をいち早く捉えたものと言えるかも。