画像はフットボール専門誌「イレブン」1982年11月号。この号の表紙を飾ったのはその年の夏に行われたW杯で、「不調」と言われた西ドイツ攻撃陣を「救う」活躍を見せた同チームの新鋭ウインガー、ピエール・リトバルスキー、当時22歳。彼の特集記事(カラー)も載っていて、作者にとってはまさに「お宝」級の古雑誌なのだが、この号が「お宝」である理由は他にもある。(しかし、この写真の青年、何とも絶妙な笑みだな...)
※編集部の方によると、この写真の注目ポイントは「首の太さ」であるという。
この選手ほど首の太い選手はいないのではないか、という考察が付いていた。
まさか、チェーンをジャラっと付けていても肩が凝らない理由って...(余談でした)
「お宝」である理由。そのうちの一つが読者の投稿コーナーである。当時のファンの「生の声」は、その頃を知らない者にとって「時代を知る」有効な手段でもある。事実、作者はWM82で初めてフットボールを見て西ドイツのファンになったという若い女性の投稿の中に、捨て置けない文言が紛れているのを発見した。
「見事なドリブルを見せてくれたかわゆいリトバルスキー」
出たよ「かわゆい」。彼女はルンメニゲに夢中だそうだが、そんな彼女から見ても西ドイツの新鋭は「かわゆい」存在だったらしい。
当時の彼を「かわゆい」と判断する感覚は、彼女に限ったものではなく、寧ろ一般的な感覚だったのかもしれない。別の雑誌の記事で「甘いマスクで世界中の女性ファンを虜にした」という記述があったことを考えても、その可能性は高そうだ。甘いマスクという表現、イケメンか否かとかそういう話ではなく、彼が超甘口の風貌のキャラクター(※プレーはスパイシー)であるという点においては全く正しいとも思う。また同じ年の「イレブン」の別の号では、投稿者のひとり(名前から判断すると女性)は彼を「西ドイツチームのフロイライン(かわいい子)」とまで言い切っているし(寄宿学校モノの少女漫画とかにありそうだな...)、同コーナーの似顔絵イラストも綺麗な横顔や可愛いイラストが多く、彼には同世代の他の選手とは別のファン層が存在するようにも見えた。
そういう意味で、確かに彼は「特別な」若者だった。
年齢に不相応な冷静沈着さ、若さゆえに粗削りではあるが世界標準を余裕でクリアしているウイングプレーに加え、小さな細身の身体で大舞台で勝負を挑む果敢さの中に純粋無垢なヒューマニズムを内包する精神性。まだ若いが、その若さ自体をこれほど味方につけた選手を作者は他に知らない。そして少年のようなストイックでアンニュイな表情と底抜けに明るい笑顔は、彼の専売特許のようでもあった。
因みに彼に「紅顔の左ウイング」という称号があったことを知ったのは、90年代も終わりに差し掛かってからである。(「紅顔の...」の後に続く単語で多くの人が思い浮かべるのは「美少年」ではないかと思うが、その隠微なニュアンスをあっさりと裏切るフットボール用語を合体させる力技は作者の好みではある。)
「そうか...これが『かわゆい』ということか」
ちょっとだけ解ったような気分になったところで、作者は日本語の「かわゆい」の意味について、これまでちゃんと考えたことがないことに気付く。
そこで、高校生の頃に嫌々ながら勉強した古文単語から、その意味を辿ってみることにしたい。
「かわゆい」は「かわはゆし(顔映ゆし)」の変化した語だと言われている。 「はゆし」はまぶしいという意味で、顔を合わせるとまぶしく感じることから、「恥ずかしい」という意味になる。 今は照れくさいの意味で使われることが多い「面(おも)はゆい」も同様である。
「かわはゆし」「かほはゆし」「かはゆし」は元来、「相手がまばゆいほどに(地位などで)優れていて、顔向けしにくい」という感覚(今で言う「気恥ずかしい」に近いのかな)を表す言葉であり、それが転じて「直視できないけど放っておけない」、更に「いたわしい」「気の毒だ」を意味する言葉となる。更に不憫な存在をいたわる感覚から、「愛らしい」という意味で用いられるようになり、それが現在の「可愛い」の感覚に繋がっている。こうして「かわゆい」は、後に転じて「かわいい」という言葉になり、今日ではkawaiiという国際語にもなっている。その根拠や対象はどうあれ、特に深い愛情をもって大切に扱いたいと思う感情を指し、英語のcuteとイコールではない。
ここで作者は当時の若い「現代人」である投稿者の方も共有していたに違いない現代的なニュアンスでの「かわゆい」に注目してみる。
現代的意味の 「かわゆい」が対象の属性のみではなく、対象への感情を表現する主観的な言葉であり、とりわけ憧れや尊敬の感情も含めて本来は心理的に遠い存在である人に強い親近感を覚えたときの感情でもあることを考えると(一種の「ギャップ萌え」の正体か?)、彼女が西ドイツの新鋭ウインガーを「かわゆい」=「可愛い(愛す可き)」と感じたのは、至って「まとも」かもしれないのだ。(もちろん、件のファンが42年前のPL7を「かわゆい」とジャッジしたとき、その根拠として「小さい」「幼い=若い」という要素が占める割合は現在よりも大きかったかもしれない。また、もっと昔の人ならば、もうすぐ人の親になる成人男子で、しかも世界最高峰の大会に出場する程度に熟練したフットボーラーに対する感情を表現する際に「かわゆい」を用いるのは感情規範の観点から憚られると思ったかもしれない。今回はその議論は置いておく。)
ドイツ人らしからぬ軽快かつ柔らかなボール扱いを含む天才的なテクニックに加えドイツ人一流の破壊力と強メンタルが、彼のフットボーラーとしての持ち味だ。個人的には痺れるほどカッコいいと思うし、そんな彼は謂わば雲の上の遠い存在である。しかし、彼の場合はその属性そのものにフットボーラーとしての凄みとのギャップがあるため、活躍すればするほど、見事なテクニックを見せれば見せるほど、思いがけない親近感が際立つ仕組みになってしまっているような気がしてならないのだ。
現在64歳のリトバルスキーは唯一無二のドリブラーとして世界の頂点に立った経験を語ることができるレジェンドである。そんな彼がドイツ人らしからぬ悪戯っぽい笑顔で陽気に振る舞い、しかも一生懸命に日本語を話す。しかも自然体でそれをやってのける。…既にここにも思いがけない親近感が生まれていないだろうか。そうであるならば、彼は永遠に「かわゆい」から逃れられないのかもしれない。
Was ist denn schlimmer?