PL7デイズ。

西ドイツの精霊さん系(または小悪魔系)ドリブラー、ピエール・リトバルスキーについて無秩序に書き散らかす「備忘録」。

福岡時代、或いは「立ち上げ人」が陥った地獄のミスマッチ。

現在はドイツ・ヴォルフスブルクでスカウトの責任者として働く"リティ"が現役時代を振り返る:THE LEGEND SPECIAL INTERVIEW リトバルスキー


もう5年前のJリーグ公式チャンネルの動画。「残りの人生は日本で」なんて言われたら泣けてくるじゃないか、PL7のバカヤロー…(泣)本気の日本語の挨拶、綺麗な発音&発声が素敵すぎます。そして、この人の食べ物の話は本当に面白い。先ず
印象的だったのは「野菜を食べなかった」話。「言ワナイデ!」って大笑いしてるけど。「頑固なドイツ人」だったせいでステーキとフライドポテトしか食べられなくて(でもフットボーラーはそれでOKだと思ってて。笑)奥様に石頭っぷりを怒られながら食生活を改善させたというクダリ、奥様NICE!と叫びたい。そんな彼も今では自分で食材買って料理ができるまでになったのだから寧ろ尊敬する。現役時代の、あの細身のボディが意外にヘヴィなもので出来ていたかもしれないという事実が不思議でならないが、今の食事が美味しすぎて増量したりしないでね。(すでにしてる?) ずっと元気でいてね。

..というのは本題じゃなくて。タイトルにある通り「福岡時代」の話。

この動画でも、福岡時代は「ミステイク」ばかりで「強さだけを追求してしまった」「申し訳なかった」と話している。いや、リティさんウォッチャーとしても辛い時代だったよ...。この動画も見ていて結構ヘヴィだった。
この時代について彼自身が振り返っているインタビュー記事がある。(2017年の記事。興味深い話題満載ですべての内容をネタにしたいくらいですが、今回はこの時代の話題だけで。)

www.dfb.de


 "Traumhafte Stadt, tolles Trainingsgelände", erinnert sich Littbarski. "Aber da habe ich zu viel falsch gemacht, habe die japanische Mentalität doch noch unterschätzt, war zu direkt, wollte zu viel zu schnell erreichen. In Japan fällt man nicht mit der Tür ins Haus."
「本当に素敵な都市で、素晴らしい練習環境があった」リトバルスキーは回想する。「でもぼくはあまりにも大きな過ちを犯した。日本人のメンタリティーを過小評価してたし、それで直接的かつ拙速に目的を達成しようとしたんだ。日本ではね、ドアごと家に倒れ込む(出し抜けに要求を突きつける、イキナリお願いごとを言う、という意味。)ようなことはしないんだよ」

これがきっとPL7が日本に「帰れない」理由になってるかもしれない。
この時代のことを思い出すと、胸がぎゅっとなる。そう、誰も幸せにならなかったから。「ぼくが間違っているときは、ちゃんと指摘してくれる」という理由でシドニーFC時代にコンビを組んだアシスタントコーチ、イアン・クルークさんを連れていったけれど、クルークさんも日本の文化はよく知らない。外国人のおふたりが「間違い」に気付かずに大ナタを振るってしまった可能性は否めません。

それについては2015年5月、リティさんがヴォルフスブルクでチーフスカウトをやっていた頃の記事の発言が非常に興味深い。

number.bunshun.jp


専門的な話になればなるほど、彼の発言は厳しさが増す。容赦なさすぎて身も蓋もない感じが却って面白いので、個人的には大好きだったり。ドイツ語マシンガントークのときがMAXで面白く(誰かに訳してもらわないと理解できないけど笑)、ニホンゴになると途端に優しくなる。語彙が少ない分、頭の良さが伝わりにくいんじゃないかと思われるのが勿体ない気がするが、彼の日本語は抜群に感じが良いので、それも悪くはない(寧ろ良い)んだな。その少ない語彙で精一杯の表現を試みる意志は尊いし、その様子は感動的ですらある。(なのに何故かニヤけてしまうのですよ...ごめんねリティさん。)

それはともかく。以下、インタビューから抜粋。

(代表監督の)人選の際には、サッカーの方向性よりも、選手のメンタリティーを理解できるかどうかの方が、はるかに重要なはずだ。日本人選手はとても真面目な反面、精神的にデリケートな面を持ち合わせている。ディシプリンを守る意識も高いだけに、よりきめ細かな指示を欲しがるからだ。」
「代表監督を選ぶ際には、コーチングスタッフの構成にも配慮しなければならない。外国人だけで陣容を固めたりすれば、チームは絶対に機能しなくなる。ディテールを詰める作業が疎かになるだけでなく、選手は監督のスタンスに疑念を抱くためだ。これは少し想像力を働かせれば、誰にでも理解できる。日本人指導者を重用しない監督が、日本の選手を全面的に信用する。そんなふうに思えるだろうか?」


これってさ、ご自身の話をしてない? と作者は思いました。(気付いた人も結構いるかな…?)なので、もし「
実績を作れなかった人が他所から勝手に発言している」かのようにも見えてしまったとしたら、とても残念。この厳しい持論は、あの誰も幸せにならなかった時代の経験と引き換えに彼が得たものである可能性が高いと思うのだ。

そもそも...ですが、PL7が上手くやるときって「切込隊長」か「開拓者」か「立ち上げ人」だった気がする。それこそ古いドアを蹴破って、その勢いで建物に突入しないといけないようなシチュエーション。もしかしたら初めから建物すら無いかもしれない。おそらく選手としても、指導者としても、そんな状況のほうが彼の性に合っている。
だから既に立派な建物があって、それを大事にする場合は相性が悪い可能性はある、と作者は思う。あくまで個人的な感想だけど、例えばシドニー時代の彼と彼のチームは追っかけてて楽しかった。選手たちをチームに連れてくる情熱と才能とに、シドニーFCの確かな未来を感じたものだ。「君は頂点に立ちたくはない? だったら一緒においでよ。ぼくはまさにそのチケットを持っているんだ!」確かスコットランドか何処かで燻ってた後の豪州代表、デイヴィッド・カーニーをスカウトしたときの台詞だったと記憶している。そもそもJに来たドイツ人フットボーラーのファーストインパクトとなった人がPL7なのだよ。極東の生まれたばかりのリーグに最初の殴り込みをかけるなんて、彼だからできたことなのだと今では確信している。


あの時代、彼は間違いなく迷子になった。クリエイターがクリエイターで居続けようとすると破壊者にならざるを得ないことがきっと出てくる。道を切り拓こうとすれば森の中で道に迷うこともきっと出てくる。もしかしたら我々だけでなく、当時の彼自身もそのことに気付けずに途方に暮れていたのかもしれない。
そんな彼が、あの時代と向き合い、失敗を分析し、ちゃんと総括しているということに可能性を感じる。少なくとも、これからフットボールをやっていく人たちに、その楽しさを伝えていくのは間違いなく上手な人なんだけどな。厳しさは自分でいくらでも経験できるのだから、彼のように楽しさを体現できる人は貴重だと思うんだけどな。何が言いたいかって...作者はもう一度、現場にカムバックした彼を見てみたいような気がするのですよ。

作文:魔法使いの息子。

2022年の移籍市場でツヴァイテリーガグロイター・フュルトが最初に獲得したU19カテゴリー(当時)の選手のことが、ちょっとした話題になったことがある。謂わば売り出し前の10代の選手なのだが、多くのフットボールファンがこの青年の名前に反応した。この青年の姓がシュミットとかマイヤーとかなら作者も報道をスルーしたかもしれないが、そうはならなかった。青年は「ルシアン・リトバルスキー」という名前だった。


ルシアン君、自分は幼児だった頃の君の姿を覚えている。大人たちが日本のマンガのように目をハートにして倒れてしまいそうな人懐こい笑顔の、それでいて何処となくカッチリした体躯と意志の強そうな目が印象的な子供だった。今の君はアッシュブラウンの髪と笑ったときに見える綺麗な歯並びがドイツ人の父上とよく似ている。風貌は意外にも日本のおじいちゃん似ではないのかな。そして体格は我々日本人の平均くらいだった父上のそれを受け継いだのではなく、平均的なドイツの青年に近いのではないかと思われる。思わず「大きくなったね」と呟いてしまったじゃないか。

そんなビフォーアフターに思いを巡らせるうちに、意識は更に遠く過去へと遡上する。

その昔、大聖堂の街ケルンの名門クラブが東西冷戦最前線のベルリンから10代の坊やを連れてきた。鋭い切り返しとダブルタッチを多用するストリート仕込みの柔らかなドリブル、左右どちらの足からも繰り出すことのできる危険で美しいクロスボール、そして閃光のようなシュートが武器のサイドアタッカー。線の細い物憂げな雰囲気の子がダイナミックな走法で急加速しながらボールを追いかける。儚ささえ漂うほどの繊細な魔法が幾度となくピッチ上に煌めく。そして試合が終わると忽ち魔法は解けて、思慮深そうな目をした痩身の少年が熱狂の片隅にただ佇んでいるという不思議。その子は魔術のようなボールコントロールでピッチの両サイドを軽やかに駆け上がりながら、意外な逞しさで世界中のドリブラーたちのアイドルの階段を駆け上る。そしていつしかナショナルチームの背番号7を背負い、遂には3度ものW杯決勝を経て世界の頂点へ…。お伽話のようなこの旅の物語は、遠く極東へと続いてゆく。

そう、ルシアン青年がこの世界と出会うずっと前の話だ。極東の人々の熱烈な歓迎に対して、何故野球と相撲しか知らない筈の日本の人々が自分を知っているのかと、大困惑の小さな魔法使い。(いや寧ろ、なんで日本人があなたを知らないと思ってたわけ?)絶望的なまでに困惑の表情を浮かべた当時の彼を思い出すとき、意図せずに表情が崩壊してしまうのは自分だけではないかもしれない。

そんな魔法使いの末っ子が、19歳でプロフットボーラーになった。あの物語の延長線上に、この日独二重国籍の青年がいる---そのことが、言葉よりも先に溜め息が出るほどに、ただ感慨深く、また不思議でならないのだ。勿論「同じ日本人」であることも、この一人の若いフットボーラーの存在に特別な意味を与えてしまう要素ではあるのだけれど。
我らの魔法の記憶が、この青年の冒険の障壁になることなどありませんように。そして願わくば、この青年が近い未来、我らに新しい物語をもたらさんことを。

(お父上の一ファンが勝手なことばかり言って、ホント煩くて申し訳ない…。ルシアンさんが素敵なフットボールライフを享受できますように。)

 

【オマケ】
*現在のグロイターフュルトU23チーム。

U23 | SpVgg Greuther Fürth - die offizielle Website

 

 

↓↓ 下は1978年8月26日のリティさん。(ブンデスリーガ初見参となったカイザースラウテルン戦にて)
実は眉毛の形状その他、いろいろ息子さんと似ています。

https://www.imago-images.com/bild/sp/06986864/m.jpg

出典:Imago-images

 

リティさんが来日を断ったときのセリフ。

元ネタ(原文)求む。

「日本には行かない。場所だって正確に知らないし、魚だって食べられないし、葉っぱだって好きじゃないし、行けば餓死決定だから」(最初に奥寺さんから日本行きを打診されたときの返答)

手元の殴り書きメモより。メモを取った当時の「超意訳」の文を、勢いがありつつも少年のストイックさが残るセリフ回しに書き起こしてみた。なお「葉っぱ」は「サラダ」だったかもしれない。

いずれにしてもツッコミどころが多すぎる。徒歩で行くわけじゃないんだから場所を正確に知っている必要はないし、日本人がキリギリス以上に葉っぱばかり食ってると思われてるっぽいし...等々。何処までが本気で何処までが冗談か判然としないところがリティさんらしいな、と...。

31年経って今とりあえず言えることは、ドイツの皆さんからお借りした超貴重なアイドル(違)、ピエール・リトバルスキーが日本で餓死しなくてよかった、ということ。

以上、「Jリーグの日」っぽいネタでした。

格言:終わりのある恐怖。


"Liber ein Ende mit Schrecken als ein Schrecken mit Ende." (by Pierre M. Littbarski)

「終わりのあるホラーより、終わりがホラーのほうが好き。」
当ブログのアイコン画像に載せている「格言」です。

一体どういうシチュエーションで生まれた言葉なのだろう。「終わりのあるホラー」はホラーだけど一応終わりがある。「終わりがホラー」なのは、それまでの状況がホラーだったか否かは不明だけれど、ホラーの中で、或いはホラーを伴った状態で終わりが訪れる。どちらが好ましいかというと、何故だか後者のほうらしい。ヤバい映画の話なのか、誰もが悲鳴を上げるほど望ましくない結果になったフットボールの試合なのか。...これ、真剣に考えたら負けかもしれない。「シュパース・フォーゲル(冗談好きのお茶目さん)」のプロであるPL7の思うツボな気がする。

この格言には元ネタがあって、"Liber ein Ende mit Schrecken als ein Schrecken ohne Ende." (終わりなき恐怖より、恐怖を伴う終わりのほうが良い。)という、プロイセンの少佐、フェルディナント・フォン・シルの言葉。ナポレオン1世に対する蜂起で名を残した人で、この言葉も「恐怖の中で死んだとしても望まない状況でいるよりマシ」という名誉ある軍人としての在り方を示しているとも言われている。現代的な意味では「望まない状況が続くくらいなら、苦痛を伴うかもしれないけれどそれを終わらせるほうが良い、という解釈が成り立つっぽい。或る意味、この世の真実を多分に含む言葉といえるかも。少なくとも、意味は解りますとも。誰かさんの格言と違って。

リティさんのアレンジは"ohne"(~なしに)を"mit"(~を伴う)と置き換えるだけで、元の格言が台無しに面白くなってしまう恐怖を伴っているところが秀逸。是非とも、この恐怖は終わらないでいてほしい。
余談。以前作者があまり望ましくない状況に置かれて「いっそホラーな状況にしてでもこれを終わらせるほうがマシなんじゃないか」と破壊的(?)な行動に出そうになった際、この格言のおかげで上手い具合に脳が混乱し、「普通に終わらせればいいや」と考え直すことができ、その結果状況の悪化を防ぐことができたという素敵な(?)実績が。その点についてはリティさんに感謝してる。彼一流の含み笑いが目に浮かぶようだ...。

メモ:ブログ始めた理由じゃなさそうだけど。

4月14日の朝、滅多に夢を見ない作者が明け方に見た夢のイメージ(ストーリーは全く覚えてない)を単なる思いつきでポエムっぽく纏めてみた後、突然「この辺でブログを始めよう」と思ったのが不思議です。なので、一応ここにも貼っておこうと思います…うむ、なかなか恥ずかしい(笑)

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『遠景より』(仮)

いつか僕は君を見失う
その横顔が遠景なのか幻なのか
微笑んで夢から醒める

駆け抜けた夏の日
祝福すべきは自由か
煌めくばかりの若さか
遠ざかる景色に立ち尽くしながら
僕は心を染めた微熱が
静かに冷めてゆくことを
ただ密かに恐れている

僕が愛したのは君
今あるものが同じ愛なのか
僕はまだ知らない
遠ざかる夏を胸の奥に押し込めて
日常へと戻ってゆく
その確証の有無すらも
疑うことを恐れている

いつしか夏は腕をすり抜け
長い夢から醒めた僕は
いつもひとりぼっちだ

本:”Litti - Meine Geschichte"③

前回前々回に引き続き、「お宝本の中身」第3弾。
そういえば日本語版のほうの一人称は、より丁寧な印象の「わたし」だったかもしれない...。(それも確認したい思いはあるけど、やっぱり何か怖くて読めない笑)


「大人になるのは難しい。その過程には偽りの友人たちとの訣別も含まれる。年上の選手の中には、お前のようなチビッ子にはいつも俺が必要なのだという感覚を刷り込もうとする者もいた。特にその頃のシューマッハーは、ぼくをまるで召使いみたいに扱ってくれた。
この虚無感と孤独のなかにあって、ぼくは何もかもが怖くなった。試合でボールを失うのも、シュートを撃つのも、相手をかわすのも。勿論月曜の朝に新聞を読むのも怖かった。
やはりハネス・レーアだけが、ぼくに手を差しのべてくれた。彼は最初からミケルスとは違う接し方で選手たちを扱った。熟達した心理学者で、それぞれへの対応の仕方を心得ていた。彼を通じて、ぼくはゆっくりと自信を取り戻していった。1984年が明けて間もなく、ぼくはジュネーブで最初の成功を収めた。国際インドア選手権で、ケルンの15得点のうち5ゴールを決めて大会の最優秀選手に選ばれたのだ。外国のクラブがぼくに注目し、イタリアから最初のオファーが来た。」


なお、この「物語」は極東での新しい冒険に高揚感と希望とを見出したところで終わりを迎える。”Die Menschen sind klein,(人々は小さい)so wie ich.(ぼくと同じように)"という部分、なんてことない描写だが、「この人、本国ではどんな気分で街を歩いていたんだろう」と思うと胸がいっぱいになってしまったじゃないか...。日本との邂逅に関しては、元チームメイトの奥寺康彦さんが来日前の彼に言った「日本人は同じ目線で君と接してくれるよ」という言葉の「真の意味」を知ったときのリティさんの話があったと思うので、それもそのうち。(手元の資料に元ネタが埋もれているはず。発掘したらネタにしたいと思います。あと別にどうでもいいんだけど、例のインドア選手権は'85年だと思ってた...。彼が再びマンシャフトのスタメンに名を連ねるようになったのも85年ですし)

本:”Litti - Meine Geschichte"②

前回に引き続き、お宝本の中身。
心がチクリと痛む箇所をご紹介したが、読んでいて胸が締め付けられるような痛みを強いてくる箇所もあり…。例えば1984年前後の「大スランプ」のときの話(101頁〜)とか。23~4歳の子(敢えてこの表現)が窒息しそうになっているのを冷笑を浮かべて見ている大人たちの画が想像できてしまう。ファンとして余計に辛いのは、この「後退」がなければ、こんなフィジカルの限界値の低い天才が貴重な「若さ」を無駄にすることなく、82年までの勢いそのままに、もっと多くの富と名声とを得られていたかもしれない、と考えてしまうところ。

以下、予定外の長文ですが、せっかく訳したことだし「ざっくり翻訳」で載せちゃう。

「一部のチームメイト、とりわけトニー・シューマッハーは、この異例の決定(ケルンの監督が「ぼく」に休暇を与えたこと)に反発した。しかしレーア監督は誰も恐れなかったし、まもなく来るであろう報道陣の批判すら恐れなかった。拙いプレーをした選手に厳しい練習を課すどころか休ませるだなんて。そんな空気が充満していた。それでも監督は自分の考えを曲げることなく、ぼくがゆっくりと以前の姿に戻る時間を与えようとしてくれていたのだ。ぼくはケルンを逃れて友達のトーマス・クロート(※代表などで「ぼく」と一緒にプレーしていた選手で彼の親友)のいるアシャッフェンブルクまで車を走らせた。もう他の誰とも話したくなかったし、誰にも会いたくなかったし、報道陣が投げかけてくる質問はいちいちヘビーだし、ぼくはもう暴発寸前の危険な状態になっていた。
ふたつ目の脱出ルートはコンピュータゲームに没頭することだった。ぼくは画面の前に何時間も座り込んで、いい歳の大人に似つかわしくない子供じみたゲームのコレクションに埋もれていた。ゲームが終わるたびに得点が表示されて、何度も戦いを挑んでは返り討ちに遭い、その度に絶望的な気持ちになった。自室に引きこもって、ただ画面と睨めっこするためだけに生きているという事実に、ぼくは堪らなく不安になるのだった。
ネガティブな報道の嵐が、ぼくの眼前に吹き荒れていた。ぼくを若いスター選手として祝福していた3年前とは打って変わって全く好意的とは言い難い論調だった。ぼくは自分が「スター」なんかではなく「シューティングスター」に過ぎず、過大評価されていたのだという内容の報道を嫌でも目にすることになった。チームメイトたちもまた、ぼくを解体するのに手を貸してくれていた。トニー・シューマッハーは、とあるインタビューの中で校長先生のようにバッサリぼくを切り捨てた。「リティは考えすぎなんだ。下手すりゃあ壊れちまうだろうよ!」。突然みんなが、ぼくが上手くいかなくなった理由について物知り顔になった。急にのし上がってきた若造にブレーキをかけることを、寄って集って盛大に楽しんでいるみたいだった。
監督のハネス・レーアだけはその輪に加わらず、ぼくを信じてくれていたし、自分自身を取り戻す時間を与えてくれた。それはぼくにとって最高の薬になった。
それにもかかわらず、ぼくは依然として自分の拙いプレーに対して絶望的な反応をすることで、自分自身を傷つけていた。下手クソなプレーしかできない実際的な苦しみよりも、不安から来る苦しみのほうが大きかった。ピッチに立っても、その日に何が起こるかは予測不能だった。素晴らしいプレーをしてすべてのトリックを成功させることができたかと思えば、その数日後にはアマチュアさながらのプレーをしていた。それは技術の喪失でもフォームの劣化でもなく、心理的な拒絶反応だった。
人生ではよくあることだが、問題は単独では発生しない。クラブチームにおいて納得のゆくパフォーマンスができなかったのだから、当然ながらナショナルチームのレギュラーの椅子もない。しかしU21で主将を務めていたような選手が突然チームから声が掛からなくなったのだとしたら、そのダメージはローブローを食らったも同然だ。それはブンデスリーガの試合でメンバーから外れるよりも、はるかにまずい状況にあることを示しているからだ。ナショナルチームへの招集は長期間における選手のパフォーマンスを反映する。招待状が届かなかったとすれば、それは相当長い間物事が上手くいっていないことの証左なのである。」


この本の裏表紙には「喜びや希望だけではなく、恐怖や自信喪失についてまで、これほど率直に吐露してくれたプロフットボーラーはいない」という内容の書評が書かれている。誰かの弱さがそのまま別の誰かの強さになるプロスポーツの世界で、これは驚くべきことかもしれない。まあ、トニーが随分やらかしてるよね。当時は彼なりの正義感から「正しい」主張をしていただけかもしれないけど。

いずれにせよ、ここで終わると本当に救いがないので、光が見えたところも載せたい。
続きは次回。